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日本橋 舟寿し
社長
二永展嘉さん

今年、東京都食肉生活同業組合理事長に就任された宮本重樹さん。
日本橋地域の飲食業界においても数々の要職を歴任されており、頼れる業界の良き先輩として信頼の厚い方です。

和牛すき焼き 伊勢重
6代目社長
宮本重樹さん

小伝馬町は、同じ日本橋でも中央通りとは少し趣が異なるオフィス街。
ビルや問屋が並ぶ閑静な街にある「伊勢重」は、東京に現存しているすき焼き店では最古。
お店は綺麗に建て替えられていますが、店頭に飾られている木の看板からは、その歴史の深さが伝わります。1階は精肉や、名物の牛肉の佃煮を販売する店舗。お食事をいただける座敷がある地下1階に降りると外の騒音が嘘のように消え、どこからともなくおいしい香りが漂ってきます。明治から150年続く老舗を継いで、6代目となる宮本重樹さんにお話をうかがいました。

実直に続けてきたことを時代が評価してくれました。
武将でいえば、“家康タイプ”ですね(笑)

ー小さい頃に見た日本橋は、どんな街でしたか。

私が産まれた60年以上前は、店と住居が一緒になった二階家に住んでいました。日本橋と言っても、お店が集まる中央通り沿いとは違って、このあたりの江戸通り沿いは問屋街というかビジネス街でしたね。あの頃はまだ、都電も走っていましたね。

小さい頃は「危ないから自転車に乗ってはいかん」なんて言われたりして、外遊びをするより家や店で遊ぶことが多かった様に思います。それでも、店の中をちょろちょろすると危ないものですから、よく、ベテランの職人さんが映画に連れていってくれたりしましたね。今と比べると、のんびりした時代でしたね。

実は、飲食店という家業は自分には合わないのかもしれないと思って、大学を卒業してから2年間程、会社勤めをしていた時期もありましたが、母親が亡くなり、父親を手伝うために会社を辞めて店に入りました。

ー東京“最古”の、すき焼き店と言われていますよね。

1860年代、江戸では“牛鍋屋”と称するお店もあったようですが、うちが1869年(明治2年)に創業し、それ以降ずっと続いているという意味では東京では一番古いことになるかもしれませんね。

−伊勢重さんといえば、手切りのお肉と炭火が有名ですよね。

職人が包丁で肉を一枚一枚手切りし、すき焼きは水火鉢を使った昔ながらの炭火でつくります。割り下もずっと変わらない味です。
「なぜ、ずっと手切りなんですか?」とよく聞かれます。
肉と言うのは、すなわち筋肉(筋繊維)なので、肉の目に直角に包丁を当てた方が、やわらかく食べられます。ただ、筋肉ですから全てがまっすぐではない。手切りの場合は、あらゆる肉目に対して繊細に対応できるんです。さらに、手切りすることで肉の表面には細かい凹凸が生じ、そこに割り下がよくしみて、おいしくなります。

……ということを、よく言いますが(笑)。
実際は、昔からやっていることをコツコツ続けているだけなんです。明治の頃はスライサーもないし、ガスも電気もない。うちは不器用なものですから、何も変えずに続けてきたことを、たまたま世間が“こだわり”と思ってくれるようになった。ここまで評価をしていただくと、今更変えられなくなりますよね(笑)。

−変えずに続けるのは、難しいことのように思います。

まあ、簡単と言えば簡単、大変と言えば大変ですね。
どんな商売にも言えるのでしょうが、常にアンテナを張って世間の流行やお客様の好みを取り入れていくことも、とても大事です。ただ、うちの場合は、ずっと同じ味、同じやり方を続けていることで、お客様に来ていただいているのかなと思います。

※昔ながらの水火鉢を使った炭火(左)と、厨房の様子(右)

長く続けていれば、良い時も悪い時もあります。
2000年代はじめに起こったBSE問題の時は、牛肉が売れずにメニューを変えたり、商売を替えたりしたお店もありました。でもうちの場合、すき焼き屋なので商売は変えられない。日本橋で「牛肉を食べる会」をやったりして乗り超えました。だいぶ体力は消耗しましたけどね(笑)

−巷では、日本への外国人観光客が爆発的に増えたと言われますよね。

うちは「日本橋」という土地柄と、「すき焼き」という料理で、もともと外国からのお客様は多かったんですが、最近は少し変わってきました。これまでは日本人の方が外国人のお客様を連れてくるのが主だったのですが、今は全く日本語の通じない海外のお客様も増えてきました。インターネットで調べて来てくださる旅行客の方も増えて、ますます国際的になってきました。

地域と連係して活動する若い世代が頼もしい。
これからの日本橋が楽しみですね。

−息子さんをはじめ、日本橋を支える若い世代との関わりは、いかがですか。

息子は「肉場」をやっています。
こちらが思っている形と彼の考えと重なる部分もあるし、そうじゃないところもあるでしょうから、今後は彼がやりたいようにやればいいと思っています。私も商売を何十年も続けてきて、ここにたどり着くまでには、いくつも失敗をしてきました。

今の日本橋は家業を受け継いでいる優秀な40代、50代が揃っていると思います。私も以前は三四四会に携わっていましたが、その当時と比べて日本橋の地域としっかりと関係を結んで活動して立派だと思いますね。掛け値なしに、未来を託せる頼もしい人達だと期待しています。

−お忙しいとは思いますが、お休みはどんな風に過ごされていますか。

中学からずっとテニスを続けています。クラブにも入っていますが、日曜にしか行けない。でも、その日曜も料飲組合の集まりなど店の用事でほとんどつぶれてしまうので、今年はまだ5回ぐらいしかプレイしていませんね。

あとは読書。新幹線の中など移動中に読むことが多いので、センテンスが短く、キレよく読めるものが好きですね。最近は今野敏さんという方の本をよく読みます。それから、司馬遼太郎や池波正太郎を読んだり。
そういえば最近、息子がインターネットで見つけたらしいんですが「鬼平犯科帳」の、ある話に、うちと思しき店が出ていたそうなんですよ。江戸時代、うちの店名は伊勢谷重右衛門でしたが「伊勢谷重右衛門が八十二両盗られた」という記述が出てくるんだそうで。盗られたのは「八十二両」で「千両箱」ではなかったんですがね(笑)

※この情報は2018年6月現在のものです。